9月にクリストファー・ノーラン監督の最新作「オデュッセイア」をIMAXレーザーGTシアターで2回鑑賞した。大変面白い作品であったが、「オデュッセイア」の原作を読んだことはなかったので、ストーリー展開に馴染みがなく、少々戸惑った部分もあった。
それで、1回目の鑑賞後に書店で買い求めたのがホメロスが2800年前に書いたとされる叙事詩の「オデュッセイア」の文庫本上下巻であった。岩波文庫の作品なので、読みづらいかなと思いながら読み始めた。
しかしながら、叙事詩を書籍にしているうえに、岩波文庫独特の翻訳が混ざるので、読みづらい部分があり、また、平日は仕事で疲れて読む気になれなかったので、週末にまとめて読むということを繰り返した結果、書籍を買ってから2カ月経過して、ようやく上下巻を読破し終えたところである。
物語の筋は原作も映画も大きく違いはない。映画はノーラン監督お得意の時系列をいじる展開だったが、原作小説も時系列はかなりいじっているので、ノーラン監督は単に原作に準じて制作しているようである。
原作と映画で大きく違うのは神の存在である。映画だと神との掟を破ってしまったオデュッセウスが、新たな時代を切り開くストーリーになっていたが、原作だと神は最初から最後までオデュッセウスやテレマコスら登場人物の側にいて、オデュッセウスに対して怒りをぶつけたり、救いを出したりとする。それは最後まで変わることなく続き、神の存在が人間の行動を律しているところを描き続けている。アテナが神の代表としてオデュッセウスの側にいることになるが、映画だとアテナの存在はオデュッセウスの贖罪の象徴のようにも思える。
元が歌として語り継がれてきた英雄談を文章化しているので、独特の語り口になっている。定型された決まり文句が多く登場する。それに慣れるまでが一苦労だったが、慣れてくると歌のリズムとして受け取ることができるようになる。
本文にはかなりの注釈があり、巻末に注釈の解説がつけられているのだが、現代でも注釈部分において議論されている箇所が多いのは、興味が湧く。また、訳者解説がなぜか上巻末尾に掲載されているのは不思議ではある。下巻末尾には固有名詞の説明索引がある関係かもしれないが。
現代まで続く様々なドラマの元になっている「オデュッセイア」の原作本を読み終えたことで、9月から始まった「オデュッセイア」関連の映画鑑賞、パンフレット読破、原作読破と完了していったことになり、ようやく「オデュッセイア」から少し離れることができる。もっとも、今月末には輸入盤4K UHD Blu-rayで「オデュッセイア」映画版を入手できる予定なので、まだす完全に離れるわけでもなさそうではあるが。
